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 野洲川下流域はこんなところ
弥生遺跡のある場所
野洲川下流域とは、滋賀県にあるびわ湖に注ぐ野洲川が作った広大な沖積平野を指しています。
びわ湖は滋賀県の面積のおおよそ1/6を占めており、びわ湖から流れでる河川は瀬田川のみで、この川を下っていけば大阪湾に至ります。一方、びわ湖に注ぐ河川は数多くあり、中でも野洲川が最も大きな川で、河口に作られた沖積平野はびわ湖周辺で最大です。
この沖積平野には、縄文から中近世までの遺跡が数多く存在しています。この三角州〜扇状地は守山市や隣接する栗東市、野洲市、草津市に広がっており、ここには全国に誇れる素晴らしい弥生時代の遺跡が幾つもあります。

守山の地図

野洲川は鈴鹿山系を源とする川で、長い歴史の中で流れを幾度も変え、広い扇状地〜三角州からなる沖積平野を形作ってきました。野洲川は沖積平野の中央辺りで北流と南流に別れ、天井川となっていました。
別名「あばれ川」とも呼ばれ、度々の氾濫で災害をもたらしていました。 昭和になって北流と南流の間に放水路が設けられ、人々は川の氾濫からやっと解放された、という歴史があります。

  注:このホームページでは、野洲川下流域として、野洲市の北東を流れる家棟川を北限とし、草津市の北部を
    流れる葉山川周辺を南限として、その間にある弥生遺跡を対象としています。


野洲川下流域の地域性
この地域では縄文時代から人々が生活していた遺跡が数多く見つかっています。
弥生時代、農耕技術が未熟だった頃、野洲川の作った三角州、低湿地帯は米づくりに都合がよかったのでしょう。多くの弥生遺跡が発見されていますが、時代が進むにつれて居住区域は、びわ湖岸から内陸部に移って行きます。
九州の吉野ヶ里遺跡、大阪の池上曽根遺跡、奈良の唐古鍵遺跡、東海の朝日遺跡など、大きな弥生遺跡が日本各地で見つかっています。これらの遺跡は弥生時代を通じて集落が続いたのに比べ、この地の弥生遺跡では、拠点集落の発展・盛衰・移動が激しく、短期間で終焉していくのが特徴です(服部遺跡は弥生時代から平安時代まで続く遺跡ですが、大洪水により破壊と停滞、再生を繰り返しており、他地区の大規模集落とは異質)。
野洲川下流域は次のような地域性があり、集落の繁栄や独自性をもたらしました。

びわ湖と野洲川の存在

・淡水の三角州として日本最大 初期の水稲に都合が良く広大であった
・野洲川の氾濫による破壊と再生が繰り返された
・びわ湖の水位変動や魚の遡上など、その時の状況に応じで漁労と稲作を行えた
びわ湖に注ぐ川は119本[一級河川]もあるのに、流れ出る川は瀬田川のみで水位変動が激しかった
昭和に河水統制事業が行われるまで、たびたび洪水が生じていた
・東側の山地とびわ湖の間は高低差がかなりあり、水利技術の発達と共に集落が 高地側に移動・拡大した

交通の要所としての大きな地の利

・びわ湖と河川が交通、交易の幹線となった
・瀬戸内海から淀川〜びわ湖を通して、瀬戸内−近畿−日本海の交易路となった
西日本は年間を通して葉が生い茂る照葉樹林に覆われ、陸路の輸送は大仕事であった
・地形より、東西日本の交易ルートの要所であり、東西文化の接合点であった

野洲川下流域は水稲耕作に適した広大な土地があり、米の生産量も多かったことでしょう。また、びわ湖の恵みも享受できる場所でした。交通・交易の要所として栄えるとともに、各地の情報も集まったと思われます。

 弥生遺跡の分布と主要な遺跡
びわ湖には多くの川が流れ込み、東岸にはびわ湖に沿って南北に細長く近江平野が広がっています。そこには縄文時代から人々が住み、弥生時代には多くの集落が営まれ、遺跡として残りました。とくにびわ湖に注ぐ最大の川、野洲川の下流域には広大な淡水デルタが形成され、地の利もあって大きな拠点集落が生まれました。
野洲川下流域の遺跡の広がり
野洲川下流域は、守山市や隣接する栗東市、野洲市、草津市に広がっており、各市の教育委員会や遺跡によっては滋賀県教育委員会が発掘調査しています。
この約10km四方の範囲に120か所ほどの弥生遺跡が見つかっています。この中には、土器が散布しているだけの遺跡から、小さな集落、大規模な環濠集落、大型建物が立ち並ぶ遺跡までさまざまです。
右の遺跡分布図から、2つのことが判ります。
@現在の湖岸線から離れた所(図の右側)に多くの
 遺跡が見られ、左上の部分には遺跡が見つかって
 いない。これは、この辺りが三角州にあたり、
 野洲川の沖積作用によって土砂が運ばれ、うず高く
 積もるため、遺跡があっても深く掘らないと
 見つからないため。
A湖岸(図左下)では、びわ湖の中すなわち湖底に
 遺跡がある。
 これはびわ湖の生成に起因するものです。
遺跡分布
出典:滋賀県遺跡地図および各市の遺跡分布図より作成
主要な遺跡の分布
このような地形の構造(三角州、氾濫原または自然堤防帯、扇状地)を加味しながら主要な遺跡の分布を示したのが右図です。
この図には野洲川が流れを変えてできた旧河道も示しています。 当時は、中央辺りに東から西に大きな川 (境川)が流れていました。
図には、集落として成立していた遺跡、その地区での中核的な遺跡、重要な遺物が見つかった遺跡などを示しています。
扇状地先端部や氾濫原でも扇状地に近い微高地に主要な集落が存在しています。 この地形から判るように、南北方向の移動は、野洲川の多くの支流や自然堤防帯を越えねばならず困難であったことは確かです。
一方、東西方向には多くの川が流れており、川を使えば移動は簡単でした。 びわ湖の湖岸からは多くの丸木船が見つかっており、川〜湖岸〜川を丸木舟で移動するルートで交流していたようです。
拠点遺跡の分布

主要な遺跡の年代
当NPOは、上の図で赤色で示した広域拠点集落および大岩山の銅鐸について、ホームページの制作を進めています。
これらの遺跡がどの時代に栄えていたのか、歴史上の役割を考える上で重要です。 下の図にこれらの遺跡の栄えた年代を示しています。
拠点遺跡の年代
図から判るように、服部遺跡を除き、他の遺跡は100年〜200年しか続いていません。
弥生時代の遺跡として有名な九州の吉野ヶ里遺跡や大阪の池上曽根遺跡、奈良の唐子・鍵遺跡などは弥生時代を通して続いています。短い期間で拠点集落の盛衰が見られるのが、この地域の遺跡の特徴です。
この点、服部遺跡は弥生時代〜古墳時代へ継続しているように見えますが、暴れ川とも称される野洲川の三角州に位置するため、200〜300年間隔で大洪水に見舞われ、土砂が数10cmも積もってしまいます。そうして100年程度の空白の後、再び新しい集落が作られます。弥生を通じて集落が継続していた、というより別の遺跡と見るべきかも知れません。
このことをどう解釈するかは別として、野洲川下流域の遺跡の特徴です。